前書き

 このSSの設定は、拙作『倫敦塔顛末』とほぼ同一ですが、同作品の前日談的な直接の繋がりは想定しておりません。
 あくまで、多くのIFの世界の一つというのが前提でございます。
 面倒で申し訳ありませんが、ご了承ください。


 SMILE


 彼には、自称他称も含めて肩書がとても多い。
 セイギノミカタ、フェイカー、元マスター、魔術師見習、執事見習、コック見習、主夫等々。
 その事実は彼の少々特殊な過去を垣間見させ、また生来の多芸さと器用さの表れとして見て取れるだろう。だが、その幾つかの末尾に「見習」の二文字がつくあたりは、彼の若さと至らなさの表れでもあった。
 そして、そんな彼の肩書がまた一つ思いがけなく増える事になったのである。

 彼の務める館の女主人が彼の母国語である日本語を教えなさい、と命じたのは務め始めて約一カ月ばかりたった頃だった。
 主人曰く、「使用人の解する言語を主人である私がわからない、などということは私のひいてはわが家の恥です」という事なのだそうだ。
 正直な話、彼にとってその理由としてはあまり納得のいく話ではなかった。その時、館には彼の他にも主人と出身国が異なる使用人いたが、主人が英語以外の言語をあやっている所を目撃したことがなかったのだから。もっとも、彼の主人が突拍子もない事を言い出すのはそう珍しい話でもなかったので、そのもっともな疑問を口にのせる事はなかった。
 そういう訳で、彼が即席の日本語教師を仰せ使ったわけだが、いくら母国語とはいえ、文法や発音などを理論的に理解している訳もなく。そもそも、日本語教師の資格を持っているわけでもない彼には、一応、参考書などに目など通してはみても教え方そのものがよくわからなかった。
 その結果、即席ですます事を良しとはしない彼としては、内心情けないとは知りつつ最初の授業でその旨をはっきりと伝えるしか他に道はなかった。
 紆余曲折はあったものの結局の所、主人は本格的な日本語教師を家庭教師として招くことになり、彼としては胸を撫で下ろす事になったのだが。残念ながら、彼にとって事は無論それだけでは終らなかったのである。

 解き放たれた窓からは、初夏の爽やかな風が時折吹き込んで、彼と彼の主人の体を心地よく凪いでいた。
 館の一室、彼の女主人は椅子にゆったりと腰掛け、目をつぶっている。だが、眠っている訳ではない。その証拠のように、主人の椅子の肘掛に置かれた右手の一指し指がリズムをとるようにトントンと椅子を叩いていた。

「ルークハ、オウジョノ、テ、テヲトリ?」

 彼はそんな主人の前に本を一冊持って立ち、かなりたどたどしい日本語でその本を読み上げていた。
 それもそのはずで、彼が今読み上げている本は全編英語で綴られているものを、彼がその場で日本語に翻訳して読み上げているのだった。
 彼の新しい肩書は「日本語教師」改め、さしずめ「日本語教材テープ代用」とでもいうところだろうか。もっとも、それすらまだこちらに来て日の浅い彼が無理苦理和訳しているのだからからり怪しいものではあった。
 そんな彼に主人が、「まあ、本当はディケンズでもと言いたいところですが、彼方のレベルではこんなところかしら?」という言葉と共に差し出した本はティーンエイジャーが好んで読むようなありきたりな英雄物語であった。
 正直こんな本が主人の本棚の中にあったことが彼にとっては驚きであったが、文章はティーンエイジャー向けらしく文法が簡易で読み易く、訳し易くはあった。

「シェロ」
「はい、お嬢様」

 不意に、主人が彼の朗読を遮るように、彼の名前を呼ぶ。

「そこの所、もう一度いいかしら?」

 本の舞台はまさにクライマックスを迎えていた。主人公の騎士ルークが、完難辛苦を乗り越え愛する王女に告白をするシーン。この物語の中でも一二を争う読ませどころだったが、正直彼には甘すぎるしベタすぎて人前で読み上げるにはかなり恥ずかしいものだった。

「はい、ワタシハアナタヲアイシテイマス」
「……ワタシハアナタヲアイシテイマス、ですか」

 聞き取りずらかったのだろうかと思い、今度はことさらゆっくりともう一度読み上げた。だが、そういう訳ではなかったらしく主人は自分で小さくその言葉を反芻していた。

「よい響きの言葉。もう一度言ってみなさい」
「ワタシハアナタヲアイシテイマス」
「もっと抑揚をつけて」
「ワタシはアナタをアイシテいます」
「私の目を見て」
「私は彼方を愛しています」

 彼の体が前のめりになる。
 目の前に座っていたはずの主人が、その右手を伸ばして自分のタイを掴んで引き寄せたのだ、と彼が理解した時には彼の体は彼女に抱き寄せられていた。

「……ええ、私もよ」

 主人の発した熱い吐息が耳朶を震わせ、眩暈を起こしそうな甘い艶やかな香りが彼の鼻腔を擽った。
 真っ白になった彼の思考にも、その言葉は、英国語か日本語だったかわからないかったけれど確かに届いていた。

「えっ」
「あら、もう時間のようですわね」

 たたらを踏んで、彼は二歩三歩と後ろにあとずさった。
 主人の腕から開放されたのだとはわかるが、それ以上思考が進まない彼とは裏腹に、主人はあくまで冷静に時間を指摘した。

「えっ、あっ、はい」

 慌ただしく部屋を一礼して出ていく彼を尻目に、主人はまるで何事もなかったかのようにゆっくりと椅子に身を任せていた。


 ガチャリと、部屋の扉につけられた重々しい鍵がおりて扉が完全に閉まった瞬間、彼女の顔が火がついたかのように真っ赤に染まった。
 何かに耐えるように真っ赤なその相貌のままうつむくが、体の方は動き出すのを我慢しきれないのか両足は上下にブラブラと空中を動き、椅子の肘掛に置かれた両手の指は鍵盤の上をステップするかのようにせわしなく動き出した。

「ふふっふふふふ」

 淑女にはあまり似つかわしくないお湯にのぼせたような崩れた笑みを彼女はその上気した相貌に乗せ、再び扉がノックされ彼女の名前が呼ばれるまで彼女は笑い続けたのだった。

                                                  完


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