前書き

 このSSの設定は、拙作『倫敦塔顛末』とほぼ同一ですが、同作品の後日談的な直接の繋がりは想定しておりません。
 あくまで、多くのIFの世界の一つというのが前提でございます。
 面倒で申し訳ありませんが、ご了承ください。

 LAUGH

「ただいま」

 普段ならすぐに返ってはずの彼女に答える声は、返ってはこなかった。
 その事に訝しく思いながら玄関をぬけてすぐ彼女は、朝この家を出た時と家の雰囲気が一変していることに気がつく。その雰囲気から久しく忘れていた遠く日本に置いてきたわが家を思い起こし、それは彼女がまだすいぶんと幼かった頃の記憶と繋がった。そして彼女は何が起きたのかをほぼ完全に把握した。
 リビングに辿り着いて、そこが戸棚から窓の冊子に至るまで何もかも整然と美しく整えられているのを確認する。わざわざ、他の見て確認する必要も覚えないほど、この家のありとあらゆるものが整えられているだろう事を彼女はただ確信した。
 リビングの真ん中に置かれたテーブルの上に、飾り気のない茶封筒が一通置いてあるのを彼女は見つけた。
 長い時間彼女を待っていただろうその手紙には、労力に見合わぬ一瞥を与えただけで彼女は触れようともしない。手荷物を放り投げ、手短にあった椅子にその身まで放り出すように腰掛けた。
 書いてあるであろう内容も、そのフレーズすらも事前に想像できる手紙をいちいち開ける必要などどこにあるだろう。少なくても、彼女はその手間に時間をさく理由を見いだせなかった。
 二人で週末に行く予定だったコンサートのチケットの払い戻しとか、バカンスの行く予定だったニースのホテルへのキャンセルの電話を入れなくてはいけない事とかそんな事務的な事ばかりが彼女の頭を過ぎった。
 そんなやらなければいけない事は幾つも思い浮かぶのに、彼女の体は椅子に張り付いたように動かなかった。
 どれほどの時間が経ったのだろうか、少なくても彼女にはその時間を計る事はできなかった。少なくても幾ばかりかの時間が確かに経った事を示す様に電話が鳴り始めた。
 彼女は、じっとその電話を見つめる。
 もう骨董品のような蛇腹のコードがついた古い電話だ。そういえばと、彼女は不意に思い出した。
 あの電話も彼が、今時の電話を使いこなせない彼女の為に半ば廃棄品のモノを見つけてきて直したものだった、と。
 電話は、その健在振りを世界に誇示するように鳴り止まない。
 長い黒髪を大儀そうに掻き揚げて、彼女はようやっと電話を取った。

「もしもし、もしもし、トオサカですの? 何をやってますの?」
「……ルヴィア」

 予想通りの相手の声に、彼女は皮肉化に笑う。

「シェロが退職届を出したのですけど。どういう了見なのですか? まさか、二人でニホンに帰るおつもり」
「違うわよ。そんな訳ないじゃない」

 口から火が言葉と共に出ているのではないかと思うほど強い口調に、彼女は再び笑う。
 ああ、そうか。彼女は何も知らないのだと、その事を確認して彼女は馬鹿馬鹿しいと自覚しながら優越感に浸る。

「私は認めませんわよ、そんな事。ええ、絶対に認めません」
「だから、違うってば、ルヴィア」

 徐々に強まっていく笑いの衝動に堪えきれず、彼女は受話器を取り落とさないように気をつけながら、クスクスと声に出して笑ってしまう。

「? ミス・トオサカどうしたんですの? あなたおかしいですわよ」

 そこで初めて、相手が彼女の様子がおかしい事に気がついたのか声のトーンが落ちた。

「おかしい? ええ、そうなのかもしれないわね」

 笑いの衝動はまるで収まらず、寧ろさらに彼女の中で強まっていく。

「ミス・トオサカ。あなたおかしいですわよ? それより、シェロは、いえ、ミスター・エミヤは?」

 その名前に、不意に何もかも引っ込む。呼吸すら詰まり、彼女は言葉が見失った。

「どうしましたの、ミス・トオサカ? いまや、ミスター・エミヤは当家の立派な執事なのですから勝手な事をされては困ります。彼以外に家の紅茶の味を出せる者はいないのですよ」

 執事、紅茶。二つのフレーズにどうしてか彼女が思い出すのは、もう4年も前の光景。
 あの男との会話、印象、雰囲気、そして立ち込める紅茶の香り。
 そして、自ら視界から消したあの男の背中。  まるで、彼女自身が過ぎ去った少女の頃に戻ったようで、出た言葉は彼女自身思いがけないものだった。

「……さあ、知らないわよ。あいつの事なんか」
「ミス・トオサカ?」
「ぷっ」

 彼女は己の所業に堪えきれず噴出す。再びその身には先ほどとは比べものにならないほどの強い笑いの衝動が湧き上がってくるのを、彼女は感じていた。

「ミス・トオサカ? ミス・トオサカ? ミス・トオ」

 電話が手から落ちて、電話先の彼女の声が聞こえなくなった。
 思い返してみればヒントは幾らでもあったし、そもそも答えは目の前にぶら下がっていた。それを見なかったのは彼女自身の選択だったのだから。
 だとしたら、これは当然の帰結。こうならなければならない永遠のループ。一体、己はその中で何を夢想していたというのだろうか、と彼女は思い至って彼女はついに本格的に笑いだす。
 彼女は声を上げ、喉を嗄らして笑う、ただ、笑う。
 ぼろぼろとその両目から雫が流れ落ちるのを気にもせずに、ただ己の愚かさと、彼の愚かさをただただあざ笑い続ける。

                                                完
      


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