非現実な彼女と彼


 浦沢は彼女と出会った日の事をあまり覚えてはいない。
 覚えているのは、その日が酷く寒い冬の日で、日々続く単調な仕事で些細ながら致命的なミスを起こした事と、その日の仕事終わりに同期の同僚達と設定していた合コンでしたたかに酔ってしまったという事実だけだった。
 だから、次の日奇跡的に自分の部屋のベットで眼を覚ました時、浦沢には合コンの記憶はまったくというほど存在しなかった。そもそも、最初自分が酒を飲んだという事すら忘れていた。
 よれよれの背広と首元で大きな輪を作っているネクタイを剥ぎ取り、吐き気と頭痛を押さえ込みながら起き上がり、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを一息に飲んで初めて浦沢は、自分の部屋に部外者が存在する事に気がついた。
「……君は誰だ?」
 彼女は、当たり前のようにキッチンのテーブルに腰を下ろしていた。その目の前には、お客様用のカップに注がれたコーヒーと綺麗にトーストされた食パンが置かれていた。最初自分が酔った勢いで間違えて他人の家に上がりこんだのかと思ったほど、普通の平和な朝食の風景だった。
 彼女は、肌色のセーターにジーンズというラフな姿で、彼から見るととても魅力的な容姿をしていた。
「あら、覚えてないかしら?」
 彼女は、ちょっと笑ってそう答えた。
「……覚えていない」
 そう言われて、初めて浦沢は自分の記憶に大きなブランクが存在している事に気がついた。
「そう、残念ね」
 彼女は、言葉とは裏腹に平然とそう答えた。
「何で君はここにいるのかな?」
 浦沢は、頭痛と混乱でおかしくなりそうな頭を押さえ込みながらそう尋ねた。
 自分が何故、こんな見覚えのない女性と真面目にこんな話をしているのか?  そもそも、この女性は誰なのか?  等々疑問だけは、浦沢の頭の中に沸き起こってくるが彼にはその答えを見出す事はどうしても出来なかった。
「約束したもの」
 そんな彼の姿に、彼女はちょっと拗ねたようにそう言った。
「約束?」
「ええ、約束。私と一緒に探してくれるって言ったでしょ」
「……そんな事を言ったかな?」
 浦沢は、懸命に頭のありとあらゆる部分を攫ってみたがやはり記憶は一欠けらも残ってはいなかった。
「言ったわよ、はっきりと」
 だが、浦沢とは対照的に彼女はきっぱりとそう断言した。
「そうか……、じゃあ仕方ないのかな」
 浦沢も彼女に対面に腰を下ろしながら、何となく頷いていた。
 彼の頭は、何かを深く考えるにはあまりにも混乱していたし、ひどく暴力的な頭痛も彼を苦しめていた。
「そうよ、仕方ないの」
 そう言って微笑んだ彼女の笑みがどうしようもなく魅力的だった事も浦沢には大事な要素だった。

 それから浦沢は、その日が日曜だったという事もあって、彼女に急かされるままに急いで身支度を整えると家を出た。
 それは探索というより散歩のようだった。もっとも、浦沢は酷い頭痛に顔を歪めていたし、彼女は歩きながらも回りにきょろきょろと視線を這わせていた。
「結局、何を探せばいいのかな?」
 浦沢は、街を歩きながら彼女にそう尋ねた。
 自分の前を熱心に歩く彼女を見ながら、彼は探すべきものを彼女から聞いていない事に気が付いた。
「駄目よ、それは口には出せないの」
 彼女は至極真剣そうに周囲に目を配りつつそう言った。
「……じゃあ、探せ出せないんじゃないかな」
 浦沢は彼女の仕草を習いつつも困惑して、そう聞き返した。
 彼はあまり美徳が多いタイプの人間ではなかったけれど、一度した約束を守る程度の誠実さと真面目さは持っていた。彼は探す以上出来れば、彼女の望むものを探し出してあげたかった。
「いいえ。大丈夫、あなたと私なら探し出せるのよ。それは私にははっきりわかるもの」
「……そう」
 彼は、彼女が何の根拠もなく何故そんなにはっきり断言できるのかわからなかったけれど、何となく納得するしかなかった。
「……何と言うか、君はとてもファンタジーだ」
「そうよ。女って少なからずそういうものだもの」
 彼女はそう言って、また意味ありげに笑った。

 こうして、浦沢と彼女の探索の日々が始まった。彼女は、なぜかその日から当然のように彼の部屋の一室に住み始めた。浦沢は、何か言うべきだとは思ったのだけれども結局流されるままになった。
 正直、女の子が家に居てくれるというのは悪い気分でもなかった。もっとも、彼女は少々同居人としての資質には欠けた人間でもあったが。
 彼女は浦沢は何を問い掛けても、ほとんどまともな(少なくても彼がまともだと考えるような)答えが戻ってくる事は無かった。
 それは、特に彼女自身の事になるにつれ酷くなった。  浦沢が、彼女の名前について尋ねた時はこんな答えがかえってきた。
「私は、一応北村とは呼ばれているけど、それは私の本当の名前じゃないし、あなたにその名前で呼ばれたくはないの」
 彼女はそれきりその話題はもうけりがついたと言わんばかりに何一つ言わなかった。
 もっとも、それで浦沢が気分を害したかと言えばそうではなかった。
 逆に彼は、深く納得さえした。
 何となくそんな受け答えが彼女の場合、どうしようもなく説得力を持っているように思えたからだった。何といっても彼女はファンタジーなのだから、と。
 良くも悪くも浦沢はこの状況をそれなりに楽しんでいたのだった。

 その日も実に寒い日だった。
 浦沢と彼女は、彼のマンションの入り口に向かい合って立っていた。
 彼女は、来た時と同じように特に何も持ってはいなかった。薄いぺらぺらの鞄を一つ手に持って厚手のコートを着ていた。
「あなたとなら見つけられると思ったのに」
 彼女は心底残念そうにそう呟いた。
 結局、二週間の間毎日毎日街を彷徨い歩いたけれど、どうにも彼女が思い描くような結果は得られなかったのだった。
 そして、二週間というのは彼女にとっては見切りをつけるのは充分な時間だったようだった。
「僕も残念だよ、ここに留まる訳にはいかないのかな?」
 浦沢は、ここ数日の間繰り返し言った事をそのまま言った。
 その二週間は、彼女にとっては不本意なものだったのかも知れないが、少なくても浦沢にとっては悪いものではなかった。
 浦沢は彼女の事が大分好きになっていたし、出来れば傍にいては欲しかった。目的をもって街をうろうろと出歩くのは正直楽しかった。街には、これまで見た事の無いような表情が隠れているのを発見できた。何となく、本当に自分が何かを見つける事が出来るのではないかという予感に身を任せる事が出来るのは嬉しかった。
「あなたが一緒にくればいいのよ」
 彼女の返答はいつも同じだった。実にあっけらかんとまるで温泉旅行にでも一緒に行こう、というのと同じよう彼を誘うばかりだった。
 だけどそれが、実際の旅行のように期間が定められて今の場所に戻ってくる事を前提にした提案でない事は浦沢にもわかった。
 勿論、浦沢だって出来れば、彼女についていってやりたかった。彼女の生活能力が壊滅的に機能していない事は、二週間の間寝食を共にすれば容易に察する事はできた。
 だが、無論彼にそんな事出来るわけが無かった。
 浦沢には、仕事があり、今は離れていたとしても家族があり、山のような量のしがらみを捨て去る事もできなかった。
「無理よ、まだ見つかってないもの」
 彼女はまるで物分りの悪い子供に言い聞かせるように寂しそうに顔を横に振った。いつも自信満々の彼女そんな姿を見るのは彼にとってつらい事だった。
「そうか、……見つかるといいね」
 浦沢は、沸き起こってくるどうしようもない寂しさを噛み殺した。
「きっと見つかるわよ、私の物語はハッピーエンドって決まっているもの」
「そう」
 歩き出した彼女は振り返らなかった。その後姿に、浦沢は何かもう一言言いたいような気に駆られたが、何を言えばいいのかわからなかった。
 だから、彼女の姿が雑踏に消えても浦沢はしばらくの間彼女が消えた方向を見ていた。すると、ゆっくりと何かが彼の視界を上から横切った。
 彼が手を差し出すと、白い塊が触れた。だが次の瞬間に何の感触も残すことなく消えてなくなった。
 それは、その年の初雪だった。
 雪はその晩降り止まず、街の様相を変えるのに充分だった。その光景は、あまりに綺麗で、あまりに似合っていた。
 それが、彼の身に起きた最後の非現実な出来事だった。

 再び彼の現実的な生活が始まった。変わり映えのしない毎日の中で、浦沢は時々彼女の事を思い出し、彼の元に戻ってくる彼女を想像した。
 それは、現実的な彼が見るにはどうしようもなく非現実な想像だった。だが、彼女が彼に残したものはそれぐらいのものだったから仕方のない話だったかもしれない。

                         終


 後書き

 何というかすばらしく懐かしいです(笑)
 昔と言ってもそんなに昔でもないんですが、こんなのばっかり書いてました。
 読み返してみると、私がいかに村上春樹さんの影響を受けているかよくわかります。
 あとこれは、サイト用に書き下ろしたのではなく、某所に出すために2〜3日で書き上げたものであり、さらに字数制限もあったのでこんな感じになってしまいますた(苦笑)
 まあ、言い訳です。適当に読んでやってくださいませ。