Fate/hollow ataraxia



 Fate/hollow ataraxia 五日目の日中に

 前書き及び注意書き

 このSSは一部において、『Fate/hollow ataraxia』内の台詞、文章と同一の部分があります。
 これは、このSSの性質上の演出において意識的に同一にさせていただいたものです。(あ〜でも、特に許可とか取っている訳では勿論無いので、もし怒られたら即刻このSSごと消し去ります)
 その点ご了承ください。
 今回も『Fate/hollow ataraxia』のネタバレをふんだんに盛り込んでおります、お気をつけください。


 天に伸びて月を貫く高い高い階段を上がっていく。
 手すりも、そもそも枠組みすらない天板だけの階段の隙間からは、眼下に広がった見知った街並みが垣間見えた。  その街並みの輪郭を闇夜に浮かび上がらせている光の点が、毒々しい赤い点に徐々に飲み込まれるように赤く染まっていく。その光景は酷く禍々しく、よくないモノに見えたが、何故か新都と深山町を結ぶ大橋でその赤い光点の勢いは著しく弱まっていくのが不思議だった。
 そんな街の光景などお構いなしに自分は階段を上がっていく。一段また一段と階段を上がっていくたびに体の節々から悲鳴を上げ体がひどく重くなっていく。それでも自分は階段を上がるのを止めなかった。とても満足そうで、だけど少しだけ後悔しているようでもあって、いつかの自分と重なるようで何だかおかしな感じだった。
 そんな自分の傍らには、ぼやけてよく見えないけど誰かがいて、何か親しげに話している。
 会話の内容は姿と同様聞こえない。自分が話しているはずなのに、自分の声も誰からの声も風に攫われたようにとても遠くて、それなのにその会話がとても心強いような、心地好いような、でも何だか酷い事を言われているような気もして複雑な気分になった。
 本当に階段を一歩一歩踏みしめる感触も、体に当る冷たく強い風の感触もあるのに、それは酷く他人事で。
 ああ、これはきっと夢なんだと、彼は納得して歩く。
 そして何時の間に傍らにいてくれた誰かの姿は消えて、ついに彼の足は月に届き階段を昇りきった。
 そこには――。


 ――瞼が自然と開く。
 長年の習慣のせいだろう、どんなに寝ていたくても時間がくれば彼の瞼は開いてしまう。上半身だけ起き上がり目を転じれば、そこにはもう一組の蒲団で友人の柳洞一成が規則正しい寝息を立てていた。
 首を傾げた。一成が隣で寝ているのかまるでわからなかった。それで周りをよく見てみれば今寝ていた部屋も明らかに自分の部屋とは趣が違っていた。二人で寝るには明らかに広すぎ、質素な自分の部屋と比べてもこの部屋には何もなさすぎた。
 今のうまく状況が飲み込めなかった。
 様々な場面を切り取ったような記憶の断片が次々と浮かび上がっては消えていく。今の状況すら確固とした現実か、儚い夢の続きなのか判別がつかなかった。

「……あ〜」

 戸惑いが意味のない言葉として口から出てきて、ようやっと彼の頭は覚醒した。少しずつだが、今の状況が確かな現実の続きとして思い出されてきた。
 不意に脳髄の底を焦すような熱い衝動が彼を突き上げた。
 思い出せる記憶には何一つ齟齬は無く、無くしたモノなど何一つ無く正常に機能しているというのに、その得体のしれない衝動は感情の高まりと共に彼の胸を焦すように迫り上げてきていた。
 こぼれ出しそうな感情と衝動を押さえ込む事もできず彼は隣で規則正しい寝息を立てている一成を起さぬように、そっと蒲団と部屋から抜け出してその場から逃げ出すように吹きさらしの廊下出た。
 裏山から頭を出した朝日から漏れた強い光に彼は目を細めた。彼の目の前で、その光は薄く垂れ込めていた夜の闇を剥いでいく。
 その光景に彼は思い出した。
 半年前に見た、あの朝日照らされてできた金色の野での別れを。
 そして、衛宮士郎は長い夢から覚めた事を思い知ったのだった。

 弓道部の秋大会を前にして部内の団結を高めるために行なわれる予定のミニ合宿の事前演習として、当の弓道部であり友人の美綴綾子、間桐桜。そして、これに便乗してきた陸上部の三人娘三枝由紀香、蒔寺楓、氷室鐘。そして、事実上の発案者である遠坂凛。学園の生徒会長であり、この寺の末っ子として場所の提供者でもある柳洞一成。弓道部の顧問として、一応引率として参加している藤村大河教諭。そして、単純労働力として参加した士郎の計9人で連日を利用して柳洞寺で合宿は、宿泊代替わりの朝のお勤めの掃除と騒がしい朝食を取って終わりを告げた。
 綾子と桜は、顧問でありながら行くのを渋る大河を連れて弓道部の朝錬に、三人娘が陸上部の朝錬に行き柳洞寺から去っても士郎はまだ留まっていた。
 士郎は、朝と同じ中庭に面した廊下に何をする訳でもなく座っていた。長い夢を見ていたせいだろうか、今の彼には何をするのがひどく億劫な気分だった。

「……士郎。まだ居たの?」
「遠坂?」

 声の方向に振り向くと、いつも通りの赤い私服にツーテールに髪を結んだ遠坂凛がこちらに歩み寄ってきていた。凛は、それ以上何も言わず士郎の横に腰を下ろした。
 何か言わなければならないと思うのだがそれ以上言葉も出ず士郎は黙って座り続けた。凛もそれに付き合うように黙って掃き清められたお寺に庭を見ていた。
 どれくらい時間が過ぎただろうか、おもむろに凛が口を開いた。

「……ねぇ、約束覚えてる?」
「約束?」
「このゴタゴタが全て終わったら、幽霊屋敷を見に行こうかって約束したでしょ?」
「ああ、そういえば」

 そんな約束をしたような気がした。
 それが二日前の事だったか、三日前の事だったかわからないけれど確かにそんな約束を交わしていた事を士郎は思い出した。凛がロンドンから帰って来た際、彼女の土産話からそんな話に脱線したのだった。
 だが、自分が何故そんな洋館に興味を持ったか、という事なると士郎の記憶は靄が掛かったように不鮮明になるのだった。

「これから、行かない?」
「……なんでさ?」

 凛のせっかくの誘いにも、士郎の心は今ひとつ振るわなかった。
 朝からの気乗りがしない、という事もあるにはあったがそれ以上にそこにはもう士郎は何の興味も不思議と持てなかった。

「別にいいじゃない。どうせこんな所にいるんだし、そこまで足を伸ばしてみても」
「……ああ、そうだな」

 あえて約束を破る明確な理由も思いつかず、士郎は曖昧に頷く。

「よし、じゃあさっそく行きましょうか」

 凛が何かに踏ん切りをつけるように、勢いよく立ち上がった。そんな彼女の姿に士郎は言い様もない違和感を覚えたが、それを口にする事は何となくはばかわれた。

                 ・・・・・・・・・・・・・・・・

 件の幽霊屋敷は、遠坂邸を大きく迂回した林の中にひっそりと建っていた。

「ふーん、ここがその幽霊屋敷か。……けど、見た感じそんな雰囲気でもないぞ。別に調べる必要もないんじゃないか?」

 一言で言えば、その洋館は大きく立派ではあったけれどごく普通の古い建物にしか士郎の目には映らなかった。少なくても魔力の残滓も、何かの魔術行使の形跡も見つける事はできなかった。これなら、よっぽど遠坂邸の方が曰くつきの幽霊屋敷に見えるだろう。
 だが、それ以上に士郎をこの屋敷を見た瞬間から捕らえていたのは確かな既視感だった。
 本や写真ではなく間違いなく現物をこの目で見た、という揺るぎのない記憶が士郎にはあった。だが、それはどの記憶にも結びつかないまるでそこに誰かがぽつんと置き忘れていったような分断された記憶の欠片だった。
 だからだろうか、士郎は少し怯んでいた。
 怖くは無い。だが、何だかその記憶の不確かさが士郎には気持ちが悪かった。

「ここまで来てなに言ってるのよ。落ち着いたら見学に行くって言ったのはそっちでしょ。それともなに、今さら怖じ気づいた?」

 そんな士郎の様子に、凛が意地の悪そうに笑った。
 柳洞寺を出てからの凛は何故かいつも以上にハイテンションだった。いつもなら何でもないような、士郎の言動や行動にいちいち反応してはからかってきていた。

「そ、そんなコトあるかっ。別に幽霊の一人や二人、いまさら怖くもないっ」

 士郎は、自分でもよくわからない動揺を見透かされたようで思わずむきになって反応してしまう。

「いい返事ね。なら行きましょう。実を言うとね、わたしもここには興味があったんだ」

 そう言って、凛は洋館の扉のノブに手を掛けた。鍵が掛かってないのか、思いの外すんなりと扉は開いた。
 入り口から伺える洋館の中は、思っていたほど酷いものではなかった。確かに、数十年にわたって掃除も手入れもしていなかったため明らかに痛んでいる感じが館全体からしたが、内装や調度品は多分使っていた当時ものなのだろうが残っているし、ガラス等に割れた所も無く廃屋という感じはしなかった。

「……おかしい」

 だが、何が気に入らないのか凛が心持ち緊張した様子で呟いた。

「どうしたんだ、遠坂?」
「この館放置されて随分経つはずなのに、半年前の私たち以外にここ最近誰かが入った形跡がある。って、どこ行くのよ」

 確かに、この洋館には長い間締め切られた家特有の淀んだ空気が沈殿していなかった。床を見ても、深く溜まっているはずの埃も心なし薄くなっているように士郎にも感じられた。
 そんな館の様子に、入る前の4割ほど増しの緊張感で一階の部屋を覗き込む凛とは裏腹に、士郎の足は自然と二階の階段へと動いていた。

「二階」

 凛の問いかけに端的に答えながら、士郎は彼女が後をついてくるのを確認せず足を進めた。
 既視感は続いていた。何もかも見た事があった。一度見た映画をもう一度見直すように永遠と続く既視感。一階の部屋を見る必要はない。そこには何もない事を士郎は知っていた。

「どうして、いきなり」
「いや、よくわからないけど。こっちだろ遠坂が見つけた、その令呪を奪われたマスターの片腕があった部屋って?」

 時間が経ち真っ黒になった血溜り、テーブルの上に転がっていた片耳だけの銀色のピアス。
 思い浮かぶのは、その二つ。目にした記憶、手に取った感触もあるのに、それを繋ぐはずのものが、何か大事だったはずの事が士郎は思い出せない、それがとてもとてももどかしい。

「そ、そうだけど。どうして、そんなコト士郎が知っているのよ?」
「……わからない」

 言葉にできる理由は、士郎は何一つ持ち合わせてはいなかった。ただ、深い確信だけがあった。
 そこには、何かが居ると理性によらず告げるモノがある。あの時いなかったモノがきっといると、ただ思う。
 一つの逡巡もなく歩く、士郎の足が一つの扉の前で自然に止まって躊躇無く扉に手をかけた。
 部屋には人が横に慣れるぐらいの大きなソファーに年代物とおぼしき椅子と小さな机。そして、カーペットが引かれた床には隠しようも無くどす黒く変色した血痕が広がっていた。
 そして、正面の出窓には日の光を背負って女性がこちらを向いて腰を下ろしていた。
 士郎よりずっと淡い紫色の赤毛の短髪、髪の色に合わせたようなワインレッドの女物の背広に身を包んだ女性にしては長身の体。目を引くのは風に靡く中身の無い右腕の袖。彼女の左腕が肩口からすっぱりと無くなっていた。
 普段なら引き締まって綺麗に整った容姿をした女性であるはずなのに、まるでありえないモノを、それこそ幽霊でも目にしたかのように硬直していた。何か言いかけていたのだろう口を半開きのまま硬直している姿はあまり見た目のいいものではなかった。
 不思議な違和感があった。
 会った事も見た事もないはずの女性なのに、その姿に士郎は奇妙な安堵感を覚えていた。

「はじめまして、衛宮士郎」
「えっ!!」

 不意に目の前の女性とはまるで違う方向から掛けられた言葉に、士郎は自然と出かけた言葉を飲み込んでしまう。  反射的に振り返ってそれを目にした瞬間、頭の一部にノイズが走り、不意に幾つかの画像がフラッシュバックして消えた。
 自然なウェーブがかかった銀髪、整った相貌に金の瞳を宿した少女は質素で清楚な法衣に身を包み、袖から垣間見える素肌の細い腕に巻かれた包帯が痛々しい姿に衛宮士郎は確かに、この少女と会っているとそう確信しかけた。

「カレン・オルテンシア。私の名前です」

 だが、目の前で発せられたその燻した銅を連想させる低く擦れた女性のものとも思えぬ声色に士郎の記憶がたちまちに霧散してしまった。
 目の前で口を開き喋っている姿を見ても、その声と容姿には明らかなギャップを、そうまるで、あるべき本物が何かの手違いで偽者と何時の間にか摩り替わってしまった様なそんな違和感を感じないわけにはいかなかった。

「……カレン・オルテンシア」

 思わず士郎は名乗られた名前を反芻していた。
 知っている、頭のどこかでその名前が士郎の中で反響した。会った事などない、従って記憶もないはずなのに、その名前と相貌は何故か士郎の奥底にこびり付いているようでひどくもどかしい。

「ちなみに、そこで間抜け面をさらしているのは魔術協会の封印執行人バゼット・マクレミッツです」
「「「えっ」」」

 こちらの事などお構いなしにカレンの口から発せられた言葉に、今度は驚きの声が3つ同時に上がった。

「……あ、あなたは?」

 その中でも一番に驚いているのは名前を呼ばれたのは当の本人らしく、ようやっと困惑したような声を出した。名前を呼ばれたというのに、どうにもバゼットと呼ばれた彼女はカレンの事を知らないようだった。だが、あくまでカレンは親しげにバゼットに語りかける。

「すみません、バゼット。あなたがあまりに呆然としているので勝手に紹介をしてしまいました」
「ちょっ、ちょっと待って。魔術協会の封印執行人? あそこにいる人が?」

 それまで蚊帳の外にいた凛が、聞き捨てならない事を聞いたとばかりに身を乗り出してきた。
 フウインシッコウニン、という聞き覚えのない言葉に士郎は首を傾げた。もっとも、バゼットと呼ばれた女性が魔術協会に関係があるという事は彼女も魔術と何らかの関わりがある、という事だけ知れた。

「あら、遠坂凛。いたのですか?」
「ええ、いたわよ。最初からね、そんな事より、今あそこにいる人の事を何て言ったの?」

 凛が明らかに、緊張と警戒を持ってバゼットを指差した。しかし、どうやら凛は目の前のカレンの事は見知っているようで、その事に士郎は一人驚いた。
 バゼットが魔術と何らかの関係があるなら、凛が彼女に警戒心を持つのは頷ける事だったが、ここに至っても士郎にはバゼットに警戒心を持つ事はできずにいた。むしろ、淡々と言葉を続けるカレンという少女の方にこそ何かわからないが警戒心を喚起されていた。もっとも、それは彼女の問題というより、士郎が法衣や修道服といった教会に関する事に経験からよいイメージを持っていない事に起因するのかもしれないのだが。

「聞こえませんでしたか?  彼女は魔術協会の泣く子も黙る封印執行人だと言ったのですよ」
「……もう元です。半年も死亡扱いだったでしょうから」

 繰り返し答えたカレンの答えを、今度は当バゼットが否定した。もっともそれは、さらに凛と士郎に当惑と疑問を与えるものでしかなかった。

「死亡扱い?」
「どういう事よ?」
「簡単な話です、彼女は第五次聖杯戦争の参加者であり、脱落者の一人でしたから」

 士郎と凛の疑問に、答えたのはバゼットではなくやはりカレンだった。
 第五次聖杯戦争。それは、もう半年も前に過ぎ去った魔術師によって召還されたサーヴァント達が繰り広げる聖杯を巡る代理戦争。それに、士郎も凛もそれぞれマスターの一人として、参加の経緯こそ大分ことなるが参加していた。

「参加者? マスターだったという事か?」
「ええ」

 だが、その答えに士郎が首を傾げた。
 衛宮士郎こそ第五次聖杯戦争の勝者であったこそわかる。彼が相対したマスターの中には彼女の姿はない。勿論、彼が全ての他のマスターを倒したという訳ではなかったが、それにしてもマスターと対になるはずのサーヴァントにも思い当たる該当者はいなかった。

「まさか、早々に綺礼に倒されて令呪を奪われたマスターがこの人だっていうの?」
「そうです、彼女は言峰綺礼によって、自分の令呪を奪われ脱落しています」

 閃いたのかそう答えた凛の指摘に、カレンが淡々と答え、バゼットは顔を歪めた。
 凛がこの場所で発見したという切り落とされた右腕。そして、確かに目の前にいるバゼットからはその右腕はまるまる失われていた。その一致する符合に士郎は頷くが、凛はなにやら納得がいかないのか自分で言っておきながら何やら不満そうだった。

「それより場所を移動しましょう? 説明をするにはここは少々埃が多すぎるようです」

 不意にカレンが他の三人の動揺などお構いなしに平然と提案してきた。

「移動するのはかまわないけどどこに行くの、教会?」
「いえ、あそこもまだ荒れていますから。できれば、衛宮士郎の家をお借りしたいのですが、かまいませんか?」
「あ、ああ、それは別にかまわないけど」

 突然振られて思わず士郎が頷いていた。
 その瞬間垣間見えたカレンの表情が、一瞬笑みを浮かべたように見えたのが引っかかったが今更撤回する事もできない。

「それでは行きましょう。ああ、バゼット。もし、まだ体が動かないようでした言ってください、肩ぐらいお貸ししますよ?」 「いえ、結構です。まだ、戦闘は無理でしょうが、歩くくらいなら問題ありません」

 バゼットが、カレンの言葉を拒否すると出窓から腰を上げ、こちらに歩み寄ってきたが確かにその姿は筋肉痛を抱えたアスリートのように、どこかギクシャクした感じを与えるものだった。

「……いじっぱり」
「何か?」
「いえ、では行きましょうか?」

 ぼそっと呟かれた言葉に、バゼットがすばやく反応するがカレンはさっさと受け流して歩き出した。
 するとカツン、カツンと扉をノックするような音が響いた。その音に惹かれる様に士郎が目を向けると、歩くカレンの足元で彼女の足より早く杖が彼女の行く方に動いて探るように杖先が空中を彷徨い、壁や床をとんとんと叩いていた。

「……カレンさん、目が見えないのか?」

 士郎の声が震えた。よくわからないまま、士郎はその事実にひどく動揺を覚えていた。

「ええ、私の目から視力は完全に失われています。些細な事です、それより早く行きましょう」

 カレンが士郎に向き直った。一体いかなる技を用いているのかわからないが金色の瞳は開かれ、まっすぐ士郎の姿を捉えているように見えた。
 だが、意識して見ればすぐに士郎にもその瞳がガラス玉を嵌め込んだように虚ろである事がわかった。

「……ああ」
 まるで目が見えない事がごく自然な事であるかのようになカレンの淡々とした口調に、士郎は出かかった言葉を飲み込んだ。もっとも、士郎自身今自分の口を出かけた言葉が何だったのかまるでわからなかった。

             ・・・・・・・・・・・

「おいしい、衛宮士郎。あなたはお茶を煎れるのがうまいのですね」

 目が見えないはずのカレンはごく自然な手つきで士郎の入れた緑茶を一口啜った。一応、褒められたはずの士郎なのだがカレンが浮かべている皮肉っぽい笑みに何となく素直には喜べなかった。
 衛宮邸の居間にはちょっとした異空間が出来上がっていた。
 純日本造りの居間に置かれた食卓を、外国人の修道女、背広をびしっと着こなした片腕のない元魔術教会封印執行人の外国女性、その二人を野獣の生態でも観察しているかのごとき警戒心をもって交互に見ている学園のアイドルが囲んでいるのだ。士郎に緊張するなというのが無理というものだろう。
 正直な所、士郎としては台所にでも引っ込んでいたいというのが偽らざる本音なのだが、凛の無言の圧力の前に撤退も諦めざる終えなかった。
 そして、もう一つ士郎の精神を苛む事があった。何故だがよくわからないのだが、時々彼の顔をじっと見つめる視線を感じるのだ。士郎が視線を感じて振り返ると、その視線の主であるバゼットは慌てて視線を外してくるのでどうにもやり難いし、気になって仕方がなかった。耐えかねて、士郎が問いただしても。 「いえ、その、何でもないのです」 と、何やら奥歯にモノの挟まったような要領の得ない返事をするばかりで、何か言いたげに士郎の顔をちらちらと窺うのを止めるようとはしなかった。
 そして、この場唯一の味方であるはずの凛はといば、一秒ごとにその警戒レベルが上がっているようで、背後には真っ赤な魔力すら背負っている。全身神経が二人に向き直っているようで士郎が話かける隙間もない。
 まったくもってカレンのお世辞程度では、その場の雰囲気に飲まれて疼きだした士郎の胃の痛みすら消えてはくれなかった。

「そうか、ありがとう」

 それでも一応場を和ませようと褒めてくれたのだからと礼を言った矢先、そんな士郎の甘い考えをあざ笑うようにカレンが返す刀でその場を混ぜっ返した。

「まあ、こちらの不調法な女にはそんな事わからないでしょうが」
「カレン、何を言っているのですか。これは間違いなくお茶です、それくらい私にもわかります」
「「はぁ?」」

 やはりお茶を口に含んだバゼットの当の得ない返答に、士郎と凛の言葉が重なる。  ちなみに、すでにバゼットのお茶はすでに空だった。出しても湯呑み一杯分の湯気が立つお茶をどうやってか、たったの一口、二口で一気に飲み干してしまうのだ。カレンの言う通り味もへったくれもない事夥しい。

「そういう事をわかってないと言っているのよ」
「……くっ」

 カレンの哀れむような微笑がついた指摘に、多少は思うところがあるのかバゼットが押し黙った。

「そんな事はどうでもいいから、説明してくるんじゃなかったの?」

 いい加減焦れて来たのだろう凛が身を乗り出して、カレンに迫った。だが、そんな凛の姿にカレンは鬱陶しそうに顔を歪めて小さく、だが聞こえる程度の声で一言呟く。

「……Parcamiseria」
「ちょっと、今ものすごくシスターらしくない事言わなかった」

 凛が、カレンの一言に噛み付く。
 横で聞いていた士郎にも、言葉こそわからないもののひどく不穏当な気配だけは察する事が出来た。

「せっかちな人ね、と言ったのよ。お茶ぐらいゆっくりと飲ませて欲しいものね。常に優雅たれ、というのがあなたの家の矜持ではなかったのかしら?」
「……むっ」

 今度は、凛がカレンの言葉に押し黙ってしまう。
 何だか、わからないが一秒ごとに居間の雰囲気が重く暗くなっていくように、士郎には思えてなかった。だが、味音痴とカレンに言われたようなもののバゼットはどうにも空気を読むという素養もないようだった。

「カレン、私は凛に同意します。詳しい話を早く聞きたい」
「やれやれ、困ったものね。だだっ子ばかりで」

 そう呆れたように嘆息してから、焦らすようにもう一口お茶を含んでようやっとカレンは話を始めた。
 彼女の語った話を総合すると、教会によって新たに観測された聖杯の波動を探索する任務を受けて、冬木に降り立った彼女は内にあの館に辿り着き、波動の調査中に死にかけていたバゼットを発見して治療を施したという事らしい。

「特に、バゼット。貴方は私が治療しなければ命を落としていた所なのだから感謝の一つでもしてほしい所ですね」
「ええ、わかっています」

 カレンの皮肉めいた言葉にバゼットは素直に答えたが、その口調は明らかに感謝しているとは程遠いものだった。

「貴方さっき聖杯の波動が観測された、と言ったわよね」

 今度は、眉根を寄せて、凛が疑問を呈した。

「ええ」
「それが、おかしいのよ。冬木の聖杯は第五次聖杯戦争の大失敗で壊れたはず、人の手で直せるようなモノでないし、直した形跡もない。それなのに聖杯が機動したというの?」
「そうです。  いえ、正確に言えば、初めから機動していたというべきなのでしょうね。そして、つい最近まで機動していながらも眠っていたものがある切っ掛けで目覚めた、というべきなのかもしれません。まあ、全て推測にすぎませんが」
「そんな事があったなんて」

 あくまで、信じられないような様子の凛に、カレンが皮肉めいた笑みを浮かべ問いかけた。

「信じられませんか? では、何故貴方はここにいるのですか?」
「はぁ? それは桜から手紙を貰って……」
「その手紙の内容は覚えてはいないのですか? そもそも、何故ロンドンにいるはずの貴方が手紙一つで戻ってきたのですか?」
「……そう、そうだわ」

 続けざまに発せられるカレンの問いかけに、思い当たる事があったのか凛が顔に右手を当ててうめいた。
 冬木市の管理者として、この街で起きていた異変を指摘されるまで気がつきもしなかったというのが、凛の矜持を少なからず傷つけたのだろう。

「で、結局それも終わったのか?」

 ここで初めて士郎が口を挿んだ。
 今までの話には、一応魔術師の端くれとして興味こそあったけれど正直な話士郎にとっては重要な事ではなかった。 もう二度とあんな戦争は起こさせないし、起きているなら犠牲が出ないうちに止めることそれだけが士郎にとって重要な事だった。

「ええ、そうでしょうね。でなければ、ここにこうして彼女がいるわけがないのですから。ねぇ、バゼット?」

 不意にカレンはバゼットに話を振った。だが、それにバゼットは露骨に顔を背けた。

「バゼット。あなたなら、何が起きていたからもっと詳しく知っているのではないですか?」
「……何故、そう思うのですか?」

 それでも追求の手を止めないカレンに、バゼットが問いかけで返した。

「この聖杯の機動は、間違いなく貴方を中心に起きていたからです。貴方の願いこそがこの聖杯を機動させていたのではないですか?」
「……いえ、私から話す事は何も」
「何も?」

 一瞬、バゼットの視線が最初相対した時から初めて自分の相貌を正面から捕らえたのが、士郎にはわかった。だが、次の瞬間には彼女の視線は、士郎と合う事はなくカレンへと向き直っていた。

「何もありません」
「そうですか」

 今一度バゼットが硬い口調で、カレンの追及を拒絶した。カレンもそれ以上は何も言わず、ゆっくりと冷めたお茶をまた一口飲み込んだ。

            ・・・・・・・・・・・・・・・・

 カレンの話が一通り終わっても、残念ながら一段落という訳にはいかなかった。
 カレンの口より、すぐに新しい問題が切り出されたからだった。
 それというのも、半年間死亡扱いにされていたバゼットは勿論、教会を修復中の彼女自身に当座の居場所すらないのだと言い始めたのだ。

「困ったものです」

 と、その言葉とは全然違うあくまで余裕に満ちた口調で、そう締めくくるとカレンは「何か言う事はないのですか?」と言わんばかりにそこで言葉を止めた。
 勿論、士郎にはカレンが何が言いたいのかすぐにわかった。自分に何を言わせたいのかも、自分が結局の所それを言ってしまうのだろう事もわかっていた。それでも、それを口に出すのはどうにも憚られた。何故なら、すぐ右隣に座っているもう一人の少女の視線が一段と厳しくなっていくのを、士郎としては考慮しないわけにはいかなかった。
 しかし、それも結局の所ささやかな反抗にしかならなかったのは言うまでもなく。カレンとバゼットはまず満足すべき仮の住居を得、士郎は精神的肉体的疲労を抱え込む事になったのだった。
 その後、二人の部屋の準備やら昼食の支度やらを終え、いつもの三倍以上の体力と精神を使って終えて、士郎は自室にようやっと今や唯一の心休まる場所と化しつつある自室にでも逃げ込もうとした。

「待ちなさい、衛宮士郎」
「えっ、……うわぁぁぁああぁ」

 名前を呼ばれて振り向いた瞬間、士郎の右足に赤い布が巻き付いて彼の体を引きずり倒した。そして、そのまま引きずりながら彼を部屋の中に引きずり込んでしまう。

「フィッシュ」
「……何の真似なんだ、カレン?」

 顔を上げると、予想通りの人物が何故かとても満足そうな表情を浮かべた加害者が士郎の右足に巻きついている赤い布を持って立っていた。
 さすがにこんな目に合わされては敬称をつける気にもなれず、士郎は低い声でそう尋ねた。

「いえ、少々お話をしたいと思いまして」
「……だったら、普通に声を掛けてくれたら足を止めるから?」
「すみません、何分目が見えないモノですから」
「……それ何の理由にもなってないぞ」

 カレンの言い訳にもならないような言い訳を聞き流しつつ、右足に絡みついた赤い布を振り解こうとしたのだが、どのような原理が働いているか、ただ絡み付いているだけのはずの布は何故か一向に外れなかった。

「ちっ、細かい男ね。これじゃあ、あっちの方も期待できないわね」
「おい、何か今不謹慎な事いわなかったか?」
「いえ、何も」

 カレンは素早く目を閉じて、両手を胸の前に合わせる祈りのポーズをとってみせた。

「で、聞きたい事って何?」
「これも調査の一環だと思ってください。第五次聖杯戦争の勝利者であるはずの貴方に問いたかったのです」
「だから、何さ?」

 士郎は首を傾げた。
 魔術協会には、凛の手によって今回の聖杯戦争についてのレポートがすでに送付され、さきほどまでの話を聞く限り、カレンも独自の調査でかなりの情報を得ているだろう事は容易に知れた。
 いくら聖杯戦争の勝者といえど、あくまで魔術師として見習いもいい所の士郎にそれ以上の専門的な問いなど問われても答える事はできない。

「何故、貴方はその手に聖杯にしかけて自ら聖杯を壊したのですか?」
「それは、あの聖杯が穢れて全然別のものになっていたからだよ」

 あまりに根源的といえば、根源的な問いかけに士郎は眉を顰めた。それは実にわかりきった問いかけだった。

 ―この世の全ての悪。

 あの神父がそう言ったものに聖杯は、徹底的に汚されていた。
 空に空いた黒い孔から溢れ出るのは禍々しく穢れたモノ。ただの力の壷、彼女が望んでいた万能の杯とがあまりにもかけ離れたものになっていた。
 だから、衛宮士郎は壊した。それが、彼女との別離を意味していたとしても壊せない訳いかなかった。

「それだけですか?」
「……それだけって」

 逸れかけた士郎の思、カレンの声が現実に引き戻した。

「貴方には、元々自分の望みが何もなかったからではないのですか?」

 幾度となく指摘されてきた己の歪みに、士郎は言葉を詰まらせた。

「聖杯が穢れていようがいなかろうが、貴方はきっと聖杯を破壊していた。なぜなら貴方には、自己にかえる欲求がない。自分には与えず隣人には与える献身の鑑、世界は正しくあれと祈るような生き方。それが貴方の生き方で間違いない」

 カレンの言葉に触発されるように、記憶が浮き上ってくる。
 だが、違う。それは衛宮士郎の人生ではない。 それは、誰かの言葉を借りるなら、親から捨てられ教会から修道院にたらい回しにされた末に天職を得た少女の祈りそのものような物語。
 胸に湧くのは、怒り。
 何より、少女自身がその有り様を当然のもとして受入れているという事が、士郎には我慢が出来ない。そんな生き方を認めてはいけない、そう叫ばずにはいられない。
 だが、それはまた不意に士郎の中で目標を失う。
 それは一体誰の人生だったのだろうか? と。

「違う、それは違う」

 行き場の失った感情のままに、言葉を士郎は吐き出した。
 それは、そんな生き方はいいものでは決してない。
 なのに、士郎はその人生を正面から否定できない。少女は、そんな生き方をごく自然と受入れてしまっているから。 初めから助けなど求めてすらいない人間を、どう助ければいいというのだろうか。

「そう、そして貴方は自分を否定する。どうして、貴方はそんな自分の生き方を美しいとは感じられないのかしら?」

 美しくなくたって構わない。
 善悪なんて問題でもない。
 衛宮士郎は、そんな下らない生き方をしていくと、そう決めたのだから。だけど、少女にはそれを選ぶ事すらできなかったはずなのに。
 どうして助けを求めないかったんだと、士郎はわけもわからずその知らぬ少女に怒る。

「もう誰も貴方を責めてはいないのに、自分の欲望を持とうとしないなんて。ねぇ、人並みの幸福はそんなにつまらない?」
「……ああ、そうか」

 哀れむような、嘆くようなそんなカレンの口調。だが、寧ろその言葉に士郎は、ああ、そうかと一人合点がいく思いだった。
 衛宮士郎の生き方は、つまり我慢ができない生き方なのだ、と。
 生命の分だけ、幸あれと。皆が幸せでなければ、納得がいかない。その為だったら、自分の幸せなどくれてやるとそう叫んでいた。
 だから、このわけのわからぬこの怒りは士郎にとって正当なもの。
 衛宮士郎とは、初めからそういう人間なのだとそう確認する。その瞬間、ぴたりと何かがはまった。ぶれていたピントがぴたりとあったような、そんな感覚を士郎は覚えた。

「処置なし、という所かしら」
「ごめんな。心配して説教してくれたのに」

 自分の言葉に寧ろどこか安堵したような言葉を漏らした士郎の姿を呆れた風にそう評したカレンに、士郎は頭を下げた。
 少なくても、今の言葉で朝の動揺は収まった気がしたからだった。きっともう、今日の朝のような想いを感じる事はないだろう、と。

「……いえ、別にそういうわけではありませんので。特に謝罪は必要ありません。正直、私の小言程度で十年来の正義感が変わるとは思っていませんでしたか」

 珍しくカレンが恥じたように、頬を薄く紅潮させて俯く。

「なんでさ? だったら、どうしてそんな事を」
「どうにも、この街に来てから自覚したのですが。私は他人の傷をみつけては開くのが趣味のようでして」
「なるほど。……最悪だな」
「同感です。まったく、誰に似たのやら」

 二人して、頷きあう。  共通の敵を見出したかのような親近感を士郎だけでなくカレンも感じているようだった。

「なあ? 何かこんな話前にもしなかったかな?」
「いえ、私と貴方は今日初めて出会いましたから」
「……何と言うか、何だかあんたにすごく助けられたようなそんな気がするんだけど」

 その辺り、ひどく曖昧だった。
 あれほど、脳裏にこびり付いていたはずの記憶はもうほとんど残ってはいなかった。

「思い違いでしょう」

 だが、そんな疑問をカレンは淡々と否定した。

「そうかな。でも、助かったよ」
「何がですか?」
「もし、あの場でカレンに出会わなかったわ。きっと今でもあの夢に引きずられていたように気がするんだ」
「……貴方でも、そんな事を思うのですね」

 士郎の偽らざる言葉に、カレンは少し驚いたように、そう言った。

「それじゃあ。もういいかな?」
「ええ」

 引き戸を閉めながら、士郎は肩越しに後ろをかえりみた。
 扉の隙間から垣間見えるのは、目を瞑り、胸の前で手を組んだ銀髪の傷だらけの敬虔なるシスターの祈りの姿。その姿が一瞬いつかの風景と重なって見えて、軽い音を残して引き戸の扉が閉まる。
 彼女の姿はもう見えない。見えなくなると同時に陽炎のような記憶の残滓も、泡沫のように士郎の中から弾けてなくなった。  それが衛宮士郎にとっての本当の長い夢の終わり、再びの日常の始まりだったのかもしれない。

                                          完