読む前に |
「別にいいんじゃない」 あかいあくま、こと遠坂凛の返答は士郎の予想とは違いあっさりとしたものだった。 その日の夜、衛宮家の離れで遠坂と士郎が向き合っていた。 夜、密室で年頃の男女が二人っきり。しかも、相思相愛の恋人となれば艶っぽい展開の一つも期待したシチュエーションだろうが、残念ながらそれもその部屋に広げられた怪しげな器具やら、宝石やらで台無しもいい所だった。 聖杯戦争が終わったあと、士郎は正式に遠坂の魔術の弟子になって、魔術の訓練を続けていた。 しかも、まだ事実上の保護者である藤村大河にも後輩の間桐桜にも言ってこそいないが、卒業した後は二人で倫敦にある魔術の最高学府時計塔に入学する事も決めていた。 もちろん、最高学府たる時計塔に入るにはそれなりの魔術の技術と知識が必要になる。生粋の魔術師にして枕言葉に天才とまでつくような遠坂は無論何の問題もない、と言うより聖杯戦争の勝利者として推薦枠すらとっているので試験を受ける必要すらない。 だが、士郎はとなるとその実力は、入学試験を受ける事すらままならない、というのが現状だった。 衛宮士郎が使える魔術は、たった一つ剣製の固有結界だけだ。それ、そのものはすごいのだ。桁違いと言ってもいい。何といっても最大級の禁呪、遠坂どころか他のどの魔術士にもつかえない衛宮士郎だけの魔術。 そして、だからこそ士郎の師匠たる遠坂は頭を痛めているのだが。 禁呪たる固有結界は、そうそう他の魔術士に見せていいものではないからだ、おおっぴらにした瞬間士郎がいる場所は時計塔からホルマリン漬けの瓶の中に早代わりする事受け合いだ。 つまり、遠坂につきつけられた試練というのは、唯一使える魔術を封印した素人同然の知識しか持たない士郎を何とか時計塔の試験に引っかかる程度まで底上げしてやらなければならない、というものなのだ。しかも、期限はたった一年。 一言、無理難題と言うより、さらに少し難易度は高いかもしれない。 実際の所、士郎には余裕の時間などないのだ。だからこそ、士郎は遠坂がそんな約束をした事を怒るだろうと踏んでいたのだった。 「本当か」 「綾子の言いなりっていうのが気に食わないけど。確かに、私たちにも責任の一端はある訳だし。こんなの心の贅肉には違いないけどね」 やれやれと、遠坂は諦めたように肩をすくめてみせた。 口にこそ出さないが、そんな態度から「どうせ何言ったって聞かないでしょ、あんたは」と言われている様で、士郎は自分の魔術士としての未熟さから問題をかけている遠坂に、さらに負担をかけてしまったようで身が縮こまる思いがした。 「そうかありがとう、遠坂。いつも無理を言ってすまんな」 「もう、いいわよ。確かに部員が減ったのもあながち私たちのせいと言えないことはないし」 率直な士郎の言葉に、遠坂は顔を赤らめごにょごにょと言葉を濁した。 「でも、安心した。明日、美綴と決闘でもされたらどうしようかと思ったぞ」 安堵の溜息をつく士郎を、遠坂が半眼が睨みつけた。 「……士郎。あなた、私をなんだと思ってるのかしら?」 「えっ、いや、その」 何とか言い訳をしようとするのだが、日頃愛想のない口がそう都合よく働いてくれる訳も無く、あっというまに士郎は備え付けのベットまで追い詰められた。 「じっ〜くりと、お話をする必要があるみたいね」 そう言って、逃げ場の無い獲物を目の前にしてあかいあくまは極上の笑みを浮かべたのだった。 |
その次の日の放課後、約束通り弓道場に顔を出した士郎の目に入ったのは何故か弓道場の隅で行儀よく正座をしている遠坂凛の姿だった。 「何でここに遠坂、さんがいるんだ?」 「あら、私がいてはいけないのかしら、衛宮君?」 咄嗟に「さん」をつけて呼ぶ事が出来たのは士郎にしては上出来といえるだろう。そんな士郎を褒めるように、よく躾けれた優等生の猫を被って遠坂が答えた。 終業式にちょっとしたフライングこそあったものの、まだ遠坂と士郎は校内では一定の距離をとっていた。もっとも、三年にあがって同じクラスになってからは徐々に、その距離を周りを見ながら縮めていたが、もちろんまだ端から見るとお互いを呼び捨てで呼び合うほど親密な間柄ではなかった。 「いや、そういう訳じゃないが」 「ああ、衛宮。こいつの事は気にしなくてもいい。何の気まぐれか知らないけど、突然見学に来ただけだからな」 目に見えてうろたえる士郎に、そんな士郎の姿が滑稽なのだろう美綴が笑いながら遠坂に変わって士郎の疑問に答えてくれた。 「そういう事よ、衛宮君。私の事は気になさらなくて結構ですから」 「そ、そうか」 満面の、でもどこか意地の悪い笑みで遠坂は士郎にそう言葉をかけた。 その笑みだけで、士郎は圧迫感を持ってしまう辺り遠坂の日頃の調教が行き届いているといった所だろうか。 「さて、じゃあ衛宮。練習に入る前に一度本気で引いてみないか?」 「本気でか?」 「ああ、昨日腕が鈍ってないか、確かめてやるって言っただろ」 美綴は、何故かこころなし嬉しそうに見えた。 「そういえば、そんな事言ってたな」 「そうとなれば、やはり本気で引いてみないとわからないからな」 「……わかったよ。でも、試合じゃないんだし立射でかまわないだろ?」 美綴の言葉には、いつも以上に力が篭っているように思えた。何だかんだと、ここで美綴の提案を断るのは無理そうな予感に士郎は頷いた。 それに士郎としても、今後の事を考えて、特に目の前の美綴には最初に今の自分の射を見せておくべきだとも考えていた。 「なんでだ?」 「忘れるなよ、美綴。俺が射を引くのはもう一年以上ぶりなんだぞ。いきなり、人に見せるような射が引けるか。本気っていっても、あくまで今俺が引ける中でベストを尽くすというのがせいぜいだ」 「……まあ、衛宮がそう言うなら仕方ないか」 やれやれ、とでも言わんばかりに美綴は頭を振って士郎の提案を受入れてくれた。 彼女なりに、士郎のブランクが一年以上あるという事を考慮しての事だった。 「よ〜し、ちょっと皆はそこまで。衛宮が行射をやるから休憩してろ」 射を引いていた幾人かの生徒が、その言葉に応じて射場から一礼しておりていく。 それを見送って、士郎は一つ大きく息を吐いた。そして、目の前にある射場を改めて見た。板張りの床は冷たく、主将である美綴の薫陶がいいのだろう綺麗に磨かれていた。的が本当に遥か遠くにあるように見えた。久しぶりの射場は、昔と変わらず他の場所では決して感じられない崇高さと緊張感を持った異世界だった。 士郎が射を放つのも弓を手に取るのも、もう一年以上のない事だった。本来なら、弓道の基本である射法八節をしっかりと、一つ一つ確認するように矢を放つべきである事は士郎によくわかっていた。 だが、衛宮士郎はすでに弓を捨てた身だった。それはもう引き返さないと己の内に決めた事。なら、今弓を引くのは弓道家としての衛宮士郎ではなく、ただの衛宮士郎であるべきだった。 だから、士郎は弓道の基本である射法八節の本質を捨てた。 それは、もう形骸。その空白を埋めるために、士郎は囁くように呟いた。 「――投影、開始」 頭に思い描くのは、的に中った矢のイメージ。それで充分だった。 形だけの「足踏み」を完了して射場の中央の射位に立ち、形だけの「胴造り」で体勢を整える。形だけの「弓構え」で弓を整え、形だけの「打起し」で弓を持った両拳を持ち上げる。 イメージに寸分の乱れも無く。魔力を通しているわけでもないのに、空間が彼の理想を具現化するために歪むのがわかる。だから、士郎は何かを念じる必要も無い、考える必要もない。ただ、頭に抱いたイメージに体を合わせるそれだけでいい。 形だけの「引分け」により弓を持った左手が徐々に体から離れていく、きりきりと弓はしなりの糸が引き絞られていった。 張り詰められた弓がこれ以上番えない、という所で士郎の動きがピタリと、さながら一体の彫像のように動きを止めた。 刹那、形だけの「会」が成る。そして、形だけの「離れ」。 士郎の手から矢が離れる。離れた矢は、定規で引いたような軌跡を見ているもの全ての脳膜の焼き付けて的の中心に中っていた。 形だけの「残身」を果たす、そこに元から心はなく「残心」は成るはずもない。ただ、目の前に結果はなっていた。それで、今の士郎には充分だった。 ふぅ、と一息ついて士郎が射場から離れた。 「……美綴?」 そして、矢が刺さった的を呆然と信じられないものを見たかのように未だに眺めていた美綴に声をかけた。 士郎の問い掛けに美綴はようやっと茫然自失といった状態から脱すると、一つ息を整えるために大きく息を吐いた。そして、じっと士郎の顔を確かめるように見て、失望したように目を逸らした。 「……まったく。とても久しぶりに弓を引いたとは思えないすごい射だったよ、衛宮。だが、やはり弓道に戻るつもりは無いわけか」 前半の言葉とは裏腹に、美綴の言葉は刺々しくどこか士郎を責めているようにすら感じられた。 「美綴、それは最初から言っていた事だろう」 だが、士郎は動じない。きっと美綴はそう言うだろ思っていたからだった。 今の衛宮士郎の射がどういったものなのか、美綴ならきっと見取ってくれるだろうと信じていた。そして、それは彼が百万弁言葉を費やすより、きっと確かな答えになると知っていたからだった。 「そうだったな、まあ大会は頼むよ」 「ああ、引き受けた以上しっかりとやるさ」 「まあ、その辺は心配してないけどね」 士郎は気がつかなかったが、そんなもう事務的ともいえる二人のやり取りを不満そうに見ている人物がいた事を。 |
「あの〜、遠坂?」 |
昼休みのチャイムが鳴って、教室から次々と騒がしく学生が出て行く。 |