だぶる先生らいふっ びふぉあ〜
「あ〜、肩凝った〜」
学園長室の扉を閉めて、一応その扉が見えなくなるまで歩いてから十宮夏姫は大きく右肩を回した。
今まで受けていた教育実習の最終面接(といっても実際は名ばかりの形式だけのものだったが)が終わったのだ。とにかく教育実習を受けるための手続きをすべて終えて、夏姫は安堵のため息をついた。
9月に入ってから君影学園で行われる実習をパスしないことには大学卒業後のプランが全部台無しになるのだから、夏姫としても慎重かつ細心の注意をもって事を運ばない訳には行かなかった。
パタパタと、昇降口に向かって歩いていると履いている微妙にサイズが大きいスリッパの音が、長い廊下に綺麗に反響して実際以上に大きく響いて聞こえる。
夏休みに入っている学園は、とにかくガランとしていて物悲しい。時折、木霊のように遠くから学生の声が聞こえてはくるから、完全に無人という訳ではないのだろうが、やはりそうわかってみても夏姫の印象が変わるものでもなかった。
あと数週間もすれば、学生が帰ってきてこのここを音や活気で満たすのだ。そして、夏姫もまたそこでその一部に実習生として加わる事になる。
そう考えると、その今はただがらんどうの校舎にも夏姫は、不安と興奮を覚えるのだった。もっとも、夏姫の性格上、それは1対9くらいの割合で興奮の方が圧倒的優性を誇ってはいるのだったが。
「それではよろしくお願いします」
夏姫が、職員室を通り掛かった時ちょうど黒いスーツを身にまとった女性が出てくる所を廊下の先に見つけた。
「あれ? あの人・・・・・・」
スーツに身をつつんでいると思しきシルエットは遠目にもメリハリが効いていてスタイルの良さがわかる、まだ人形ほどの大きさにしか見えないのに彼女美人であるという確信をもってしまいそうだった。だが、夏姫の目を引いたのはそういうことではなく、耳に届いた女性の硬質な声とそのシルエットが彼女の記憶の中にあるものと重なったからだった。
夏姫が思わず近づいてその相貌をはっきりと確認すると、やはりそこにいたのは彼女の記憶通りの女性だった。
「やっぱり、黒崎先生。お久しぶりです」
生まれたてような艶やかな黒髪をきっちりと結い上げた髪型、きつめで化粧っけがほとんどないのに文句なく美しく整った相貌は記憶の姿とほぼ同じで見間違う訳もなく。五年前、まだ夏姫が高校生の頃、実習生として彼女の学校に来た黒崎時雨に間違いなかった。
「あら、あなたは?」
「覚えてませんか、ほら、私ですよ」
明らかにこちらを認識している様子に、夏姫がさらに高校の頃ポニーテールに結わえていた髪を手で再現してアピールする。もっとも、それも特に必要なかったようで時雨は懐かしそうに笑った。
「ええ、勿論ちゃんと覚えてますよ、十宮夏姫さん。本当に久しぶりね」
「嬉しい〜、本当に覚えていてくれたんですね」
「そりゃあ、ね。あなたは何というかすごく個性的な生徒だったからね」
時雨の記憶にある十宮夏姫という生徒は、とにかく明るく元気な生徒だった。クラスの中でも男女問わず人気があり、何かあれば自然と彼女を中心に結束して事に当たる事ができるそんな存在だった。
それもあって、時雨はクラスで何かあればまず夏姫と話したりすることが多く、他の生徒以上に印象に残る生徒だった。
そして今、時雨の前に成長した一人の立派な女性になって立っている彼女は、その当時の印象はそのまま、いや、あの時はまだ七分咲きだったものが時を経て満開を迎えているかのように、大きく花開いてより強く感じられるようだった。
それだけでも、目の前の彼女があれから正しく自分の良い所を伸ばして成長してきただろう事は伺えて、実習生とはいえ彼女の教育に携わった身として嬉しさを感じるのだった。
「あははは。でも、本当に偶然ですね、黒崎先生。あっ、もしかして、今ここで働いているんですか? だったら、ラッキーなんですけど」
これから夏姫にとっては、初めてくる学校で今後の進路に大きく関わる実習が控えているのだ。そこに知り合いがいる、いないでは楽天家の彼女にとっても安心感は大きく違った。
「今、というより、これから。という所かしら。それより、十宮さんこそ、どうしてここにいるの?」
「へへへへ。そうだ、その辺の説明も含めて、これから再会を祝して食事でもどうですか?」
「そうね。・・・・・・そうしましょうか。でも、ワリカンでね」
「えっ、いやだな〜、わかってますよ〜、あははははは」
多少都合のいい事を考えていない訳でもなかった夏姫としては、乾いた笑い声をあげる事くらいしかできなかった。
夏姫が時雨を連れてきたのは、駅近くのショッピングモールにあるイタリアレストランだった。
平日の昼時を外れた午後で、店も学生が入るには少々敷居が高い感じをみせる店構えのせいか店内は随分と空いていた。頼んだ料理は思いの外早く運ばれてきた。店員も暇だったのか、金髪碧眼ながら日本人という男性と、夏姫がひとくさ談笑をする余裕があるくらいだった。
「へ〜、そうなんですか、産休の先生の代行で」
「ええ、最近はどこも厳しくてね」
とりあえず、注文した料理を堪能し終えて、二人はお互いの近況を話し始めていた。
再会があまりに偶然ので、二人とも心構えをする余裕もなかったせいだろう。五年ぶりに再会したという割には、二人はあっという間にその距離を縮めていた。
「でも、チャンスなんですよね」
「そうね」
我が事のように拳をぐっと握りしめる夏姫の姿に、思わず時雨の表情がほころぶ。
「じゃあ、よかったじゃないですか、うんうん」
「それにしても、まさか貴方が教職希望とはね」
「お、おかしいですか」
自分の高校生時代を知る現役教員にそう言われて、思わず夏姫はさぐるような口調でそう尋ねてしまう。
「いえ、何だか年が経つのを自覚させらたというか、ね」
実習生の頃受け持った生徒とはいえ、自分の元教え子が今では自分と同じ場所に立とうとしているという事実に、時雨としては過ぎ去った月日が長さを否応なく感じてしまうのだった。
たかが一ヶ月少々とは言え、自分が携わった学生が同じ道を選んでくれた事が嬉しくないはずがないのだが。女性としては、過ぎ去った時間の重さをそろそろ、色々な形で感じ始める年齢を迎えている時雨だった。
「またまた〜。黒崎先生、全然若いじゃないですか〜」
「年上をからかわないの」
「からかってないですよ〜。本当ですって」
5年前、夏姫の学校に来た大学生の頃の時雨と、今目の前に座っている時雨では、正直夏姫の中では本当にほとんど遜色なかった。
なんと言っても、あの当時の目の前の黒崎時雨という大学生は、本当の教師より教師らしいとまで言われるほど落ち着きと大人の風格とでもいうべきものをすでに身につけた教習生だった。あの当時赴任して一週間がすぎた頃には、夏姫も他のクラスメイトにも時雨が実習生であるという認識はほとんどなかった。
頼りになる美人だけど、少しばかり厳しい新人教師。というのが共通の認識であり、少なくても今夏姫が時雨に感じる印象もそこから「新人」という文字が抜けた程度の同じものでしかなかった。
もっとも、当の時雨は少しばかり不機嫌そうに愁眉を寄せて、強引に話を変えてきた。
「それで、実習期間はどれくらいなの?」
「はい、それは約一月間なんです」
「まあ、それぐらいでしょうね」
教育実習は、普通2週間から8週間程度で行われる事を考えれば、一ヶ月というのは妥当といえば妥当な期間だった。
「私的にはもうちょっと長くてもいいかなぁ〜と思うんですけど」
「でも、約一ヶ月でしょ。通勤はどうするの? 学園は貴方の母校じゃないから、ご実家もここからだと距離があるでしょうし?」
普通、教育実習は伝手がある自分の母校をまず最初に志願するのが普通だ。5年前の時雨も実際そうだったが、結局何かしら事情がない限りそれが一番条件的にも楽だった。
「それなんですけど、この近くに改めて部屋を借りようかと思いまして」
「今、住んでいる所はいいの?」 「はい、私これまで友達とルームシェアをしてまして、それがこの度間が良いんだが悪いんだがわらからないんですが、その友達が晴れて男を捕まえまして。どちらにせよ、早晩出て行こうと決めていたんです」
「そ、そうなの」
微妙に、時雨の表情が微妙に引きつる。今年、晴れて独身、彼氏なしで27歳を迎える事になる彼女にとってそれは他人事ながら色々と微妙な問題だった。
もっとも、未だ花も恥じらう22歳の夏姫にはただそれだけの事らしく、時雨の表情の変化には気がつかないようだった。
「そういう黒崎先生はどうなんですか? ご実家から通勤ですか」
「それが今度は距離的にそういう訳にいかなくて、困ってるのよ」
時雨の実家は、学園から高速を飛ばしても3〜4時間ほどはかかる。車の免許をもっていない時雨は勿論だが、持っていても自宅通勤できる距離ではなかった。
「黒崎先生もですか?」
「ええ、近くの不動産屋さんを回ってはいるんだけど、どうにも予算と折り合うものがなくてね」
別に時雨としても贅沢を言っている訳ではないのだが、この年までずっと実家住まいで過ごし、これから女一人で暮らしていこうと思えば、やはりそれなりの物件を見つけ出さない訳にはいかなかった。
「そうなんですか……そうだ」
時雨の言葉に、頷き手元にコーヒーを一口口に含んだ夏姫はその一拍後、何か良いことでも思いついたように目を輝かせて、一つ手を打った。
「どうしたの、十宮さん?」
学生の頃から、夏姫が相手に向けてわざとらしい満面の笑みを向ける時は大抵何かよからぬ思いつきをした時だった事を、時雨はよく覚えていた。何と言っても、彼女はクラスのまとめ役であると同時に、もう一つの顔を持っていた。それは時雨のような真面目で規律を重んじるような教師にとってはやっかなトラブルメーカーでもあったのだから。
多少の警戒をして夏姫にそう問い掛けたが、彼女の答えは時雨の考えのさらに斜め上をいくものだった。
「だったらどうです黒崎先生。私とルームシェアしませんか?」
「夏姫さんと?」
「はい、どうせ同じ職場な訳ですし、二人で借りれば選択肢も増えますよ」
「……そうね」
五年ぶりに会った元教え子と同居する、という事態の急展開ぶりに、時雨は戸惑わずにはいられなかった。だが、同時に自分が彼女の提案にかなり乗り気になっている、という事実にこそ戸惑っていたのかもしれない。
翻って考えてみれば、彼女自身この年になって初めての一人暮らし、一人より二人で住む方が確かに安心ではあるのだが、これまでそんな事今まで考えもしなかった時雨が突然の提案に前向きになっている。それは、単に目の前に坐る夏姫という女性が持つ生来の愛敬の良さのせいなのか、変化を待ちわびていた自分の心の問題なのか、時雨にはわからなかった。
「どうです? どうです?」
片や夏姫は、ただひたすら自分の思いつきの良さに満足しているのか無邪気ににこにこと笑いながら、時雨の返答を待っていた。
「私は構わないけど。夏姫さんはいいの? 教育実習が一ヶ月間あるといっても、大学がその後あるわけだし、その後は?」
「勿論、わかってますよ〜。大学が始まっても実習ほど朝早くないですし、私車持ってますからその辺は何とでもなりますから」
「そう、それで十宮さんがいいと言うならいいんだけど」
そうなれば少なくても時雨の方には、さして目の前に座っている夏姫の事を自分は知らないのだ。という事実さえ無視してしまえば障害といえるものがなかった。
同居人が夏姫であれば、さして気を使うような事にはならないだろうし、何よりやはりルームシェアする上での利点はかなり時雨にとってかなり魅力的でもあった。時雨の心が同意する方向で完全に傾こうとした瞬間夏姫が何気なく発した質問で彼女の思考は完全に凍り付いた。
「あっ、そういえば、黒崎先生は彼氏さんとかいないんですか?」
「……突然ね」
今まで、苦笑に似てはいたが笑みが浮かんでいた時雨の表情が一瞬にして強ばった。
「えっ、いや、その〜、これから同居する訳ですし、ちょっと気になるかなぁ〜って」
さすがに、今度はその表情の明らかな変化に気がついた夏姫だったが、今更自分で引き出した話題を引っ込める訳にもいかず言葉を続けた。
「……気にしなくて良いわよ。私、もてないから」
「えっ、そんな事」
「いいから。それより、十宮さんこそどうなの?」
夏姫の言葉を遮るように、時雨らしからぬ投げ遣りともとれる口調で反対にそう問いかけた。
「へっ? 私ですか?」
「ええ、だって十宮さんもてるでしょ」
時雨から見る、夏姫はそれこそ若さと元気に溢れ、学生の頃から十分に目をひくルックスだったのが彼女の生来の性格の影響もあるのだろう、同姓の時雨から見ても眩しいほど華やいだ印象を受ける美人になっていた。そればかりか、時雨よりいくらか太めだろうがスタイルもいい。今夏姫が着ている胸元が大きく開いた赤いスーツ姿なんて、高校生という10代の男子にはどうみても目の毒に違いない。
正直、自分とは違って夏姫には彼氏がいない方がおかしい、とすら時雨は思う。
「ははは、その、私は今ちょっと、そういうのはいいかなぁ〜って」
だが、当の夏姫はといえば先ほどまでの快活さとは裏腹に気まずそうに頬を人差し指で掻いて言葉を濁すだけだった。
「と、とにかく、じゃあ、お互いに障害はないということで話進めて良いですか?」
「……ええ」
一瞬夏姫の相貌に似合わない暗い影がよぎったのが、時雨にはわかったがあえてそれを口に出すのは止めた。
今、目の前にいるのは5年前の時雨の生徒ではなく、もうすぐ自分と同じ立場に立とうとしようとしている一人の女性であるのだから。あえて彼女が口に出さない事に、よけいな詮索はすべきではなかった。
「じゃあ、急な話だけでこれからよろしくね」
「はい、こちらこそ」
お互い少なからず複雑なものを抱えつつ、最後に二人は契約代わりの握手を交わしたのだった。
「ふ〜、荷物はこれで終わりですよね」
「ええ。そうね」
引っ越し屋から荷物をすべて下ろし、各々の部屋に荷物を積みいれ終えるのだけで夕方までかかった。特に時雨は初めての実家を離れるという事もあって細々と時間がかかったようだった。
とにかく、二人とも各部屋に形をつけた所で、いち早くリビングにしつらえていた三人掛けのソファーで休憩をとることにした。
あの偶然の再会の後、不動産屋を巡った二人は思いがけずよい物件にすぐ巡りあう事ができていた。
バス・トイレ別、システムキッチン、広いリビングがあり、十分な広さの個室は三室。学園にも駅にも歩いて通える距離にあり、基本的にルームシェアする事が前提で貸し出しする事を目的とした物件だった。
問題は家賃が少しばかり二人の見積もった予算より高い事と、紹介された不動産屋が今ひとつ頼りない感じを受ける人物であった事だったが、それの不安を振り払うほど夏姫も時雨も部屋を見て一目で気に入っていた。時期が8月終わりという繁盛記ではなかった事もあったのか入居は割合すんなりと決まった。
「あっ、そうだ。黒崎先生、ちょっと待ってくださいね」
「?」
「は〜い、お待たせしました。って、黒崎先生、いけますよね?」
リビングに戻ってきた夏姫は、右手にはワインのボトル左手にはワイングラスを二つ携えていた。
「ええ、お酒は好きよ」
「そうこなくちゃ」
時雨の言葉に喜々として、夏姫がボトルを開ける。
「こほんっ。それでは、二人のルームシェア初日を記念しまして」
「「乾杯」」
「はっ〜、やっぱり一仕事終えた後はこれですね〜」
グラスとグラスがふれ合って涼やかな音と共に、夏姫はグラスの半分ほどのワインを一息に飲み干して満足そうなため息を一つついた。
「夏姫さん、まだ終わってはいないわよ」
「わかってますよ〜」
時雨の注意に、夏姫がはたはたと手を振って答える。見れば、その頬はすでにうっすらと朱色に色づき始めていえ、彼女が酒好きな割にはさして強くはない事を如実に表していた。
「ああ、それともう一緒に生活する訳だし、先生ってつける必要はないわよ」
時雨はといえば、夏姫とは違い一口づつワインを味わうように飲んでいく。だが、その実飲むペースは夏姫より速く、表情には何の影響も見えない。
「えっ、そうですか?」
「ええ」
「じゃ、じゃあ、その名前で呼んでもいいですか」
自分が高校生の頃から、「先生」と敬称を自然とつけいていた相手の名前を呼ぶことに、躊躇いがあるのか夏姫がおずおずとそう切り出した。
「いいわよ。ただ、私も夏姫さんって呼ばせてもらうけどいいかしら」
「はい。何か嬉しいですね。こういうの、それじゃあ、えっと、し、時雨さん。……あっはははは。まだ、ちょっと違和感がありますね」
照れ笑いを浮かべる夏姫の頬は、照れと酒気のせいですでに真っ赤に染まっていた。
そんな夏姫の様子は、女の時雨が見てもドキッとするほど可愛いものだった。だが、それは同時に時雨の思考を嫌な方向に持っていもいきそうで、時雨はグラスに残っていたワインをもやもやと頭に浮かんだ考えと共に一息に喉に流し込んだ。
「すぐに馴れるわよ。後は、やっぱりある程度の決め事は必要よね」
「そうですね、えっと、掃除、洗濯、ごみ出し、後は……」
指折り数えていた夏姫の言葉がそこで言い淀むように止まった。
「……炊事ね」
夏姫の言葉引き継ぐように発せられた時雨の言葉に導かれるように二人の視線は、同時に真新しいキッチンに向けられていた。
「あ、あの、時雨さんは、お料理とかどうなんですか?」
「え、えっと、その。私、今まで実家で周りの人がやってくれるものだから、その甘えてしまって・・・・・・」
どこか期待感に満ちた夏姫の口調に、今度は時雨の方が恥じらうように少し頬を染めて言葉を濁した。
「あ、そういえば、時雨さんの実家って、旅館をやられているでしたっけ」
「そうなのよ、それでついね」
「う〜ん、困りましたね」
教育実習生時代から、傍目には何から何まで一人で完璧にやってみせます、とでもいうべきオーラを身にまとっていた時雨にまさかそんな苦手分野がある事自体が夏姫にはかなりの驚きだった。
「そういえば、夏姫さんはどうなの? 確か前にもルームシェアしてたって言ってたわよね」
時雨の質問に、今度は夏姫が気まずそうに言葉を詰まらせた。
「あ〜、その、それがですね」
「ええ」
「実は〜、その一緒にルームシェアしていた娘が、そういうのがすごく手慣れていまして。そ、その上ですね、なんていうか、その世話好きでして」
普段らしくなくかそ細い声でそう告げる夏姫の声は、最後にはごにょごにょと不明瞭に言葉を濁して消えてしまった。もっとも、その程度のごまかしが時雨に通用する訳がなかったのだが。
「それにずっと甘えていたわけね」
「……はい」
時雨の容赦のない指摘に、しゅんと夏姫は小さくなった。
実を言えば、夏姫は少なからず、最初から時雨にその役目を期待してこの話を持ちかけた部分があったから、それを見透かされたのではないかという罪悪感も感じるのだった。
「いいのよ、謝らなくても。私だって同じようなものだし」
「そ、そうですよね〜」
とりあえず、お互いに傷を舐めあってみただが、無論の事それで事態が何か解決するわけでもなく。自然と二人の間には、重い沈黙がおりた。
「だ、大丈夫ですよ、きっと。ほら、人は必要に迫られれば動くって言いますし」
「そ、そうね」
「そうですよ〜、あははははは」
二人して、酒の勢いもあっていきなり沸き上がった懸案事項を笑い飛ばそうとしてみたものの、勿論遠くに空に見えた黒雲のような不安が消え去ってくれた訳ではなかった。
「……結局何ともなりませんでしたね〜」
「…………」
どこなく達観したような夏姫の言葉に、苛立った様子ながら時雨は沈黙を守った。
同居一週間が経過した二人の食生活は、残念ながら当初の甘い予想とは違い、一つの好転もみせなかった。
二人とも家にいればピザやら何やらで出前、外に出ればその辺の店での外食。よくて出来合いのものを買ってきて、レンジに直行というのがあっという間に食卓のスタンダードになってしまっていた。
引っ越し直後夏姫が勇んで買い揃えた食器やら調理用具はあっというまにキッチンの飾りと化し、あと一週間もあれば薄く白い埃の膜がおりるのを待つばかりという有様である。にもかかわらず二人の目の前のキッチンのシンクには、取り分けに使った小皿やグラスなどの細々とした洗い物が積みあがっていて、友達は勿論、できれば親にも見せたくない光景が出来上がっていた。
「あははははあは、どこかに都合よく、料理家事全般なんでもござれの高性能メイドさんとか落ちてないですかね〜」
「……夏姫さん。メイドさんってね」
あまりにも現実離れした夏姫の言葉に、時雨が呆れたようにため息をつく。
元気で、愛想がよく、生来の愛嬌の良さが夏姫の良いところだと時雨もわかっているが、真面目な時雨にはときどき出る夏姫の真面目な問題を前にして、その責任を誤魔化すような無責任な発言だけは理解できなかった。
「あっ! でも、かわいい男の子でも可。今度学園で見繕ってきましょうか?」
「……夏姫さん」
「い、いやだな〜、時雨さん。冗談、冗談ですってば〜。そんなに怖い顔しないでくださいよ〜」
さすがに自分でも多少言い過ぎたと思ったのか、さすがに教職員として聞き逃せないのかさらに眉根を寄せてプレッシャーを上げてくる時雨の様子に夏姫は困ったように手を振りながら否定の言葉を重ねた。
もっとも、夏姫とすれば場を和まそうと自分が言った軽い冗談で、なぜこれほど時雨が怒らなければならないのかまるでわからなかった。
わかっていた事とは言え、この一週間同居してみて時雨のこの辺の堅苦しさは夏姫の神経に障る事がないわけではなかった。
彼女にとってはごく普通の家の中で楽な下着姿で生活するなど些細な生活様式の事などに口を出されるたびに、さすがに直接言い返したりじゃしないもののほっといて欲しいなぁなどど思うこともしばしばあった。
その結果として、返事こそいいものの生活態度は変わらず、という事が多く。それが時雨の神経を苛立たせる結果になっているのだが、夏姫としても自分のスタイルを譲るつもりはないのだった。
ぴんぽ〜ん
「あっあれ、鳴ってますね、私行ってきます」
よい具合に鳴った来客を告げるインターフォンに、これ幸いと時雨の重圧に耐えかねた夏姫が飛びついた。
「……お願いね」
時雨はといえば、そこに答えがあるかのように真剣な様子で洗い物が溜まったシンクに視線を移していた。勿論、目の前の問題を解決するには洗うしかないのだが、そんな彼女の様子を見るとまるで実は他にも誰も知らないとっておきの解決策が隠れているように見えるから不思議だった。
「はーい、どちら様ですかー」
「あの〜、こちら」
インターフォンの向こうからは、聞き覚えのあるこちらの不安を誘うような不動産屋の声が聞こえてきた。
勿論、神ならぬ彼女達に扉の後ろに、彼女達の今抱える諸問題か一気に解決させた上、人生すらも大きく変えてしまう事になる少年が不安そうな顔で立っている事など知りようもないことだった。
「……その後の話は、本編でお楽しみくださいですわ」
「いや、四五七さん。本編ってなんですか?」
「さあ、なんでしょう?」
「それより、私としては四五七ちゃんが何でそんなに詳しくあの時事の事を知っているかの方が気になるんだけど」
「うふふふふふふ」
「いや、そこで邪悪な笑み浮かべられると本気で困るんですが……」
「ハッーハッハッハッハッ」
「意味なく笑わないでください」
「次回、「だぶる先生らいふっ あふた〜」を刮目して待て、ですわ」
「いや、次回ってなんですか」
「……それは少し興味があるわね」
「……そ、そうね」
「い、いや、そんな二人まで。なっ、ないですからね、次回なんて」
「紅茶がおいしいですわ。うふふふふふ」
「くくくくっ」
「本当にないですからねー」
了
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