「―――様!」
「……?」
「九峪様!」
「ん……ああ」

 ガクガクと肩を揺さぶられて、俺は目を擦りながら上体を起こす。目の前でニッコリと微笑みながら木の器を差し出す志野に、力なく微笑みを返す俺。たぶん、口元が引きつっているだろう。腹が苦しい……どうして、俺はあんなことを言ってしまったのだろう……

 『皆が作ったの、全種類食べてみたいな』

 だなんて。



     好意の受け皿



 最近寒くなってきたな。そう亜衣に零して、 「もう師走ですから」  と言われたのはだいぶ前だ。この世界には勿論カレンダーという名のものはない。狗根国との戦争に明け暮れて疲れた皆を励まし、休暇を取らせる意味も含めて、俺はあるイベントを企画した。そのことを廊下ですれ違った亜衣に提案したんだ。

「おせち料理……ですか?」
「そう。作り溜めておけるから、3日ぐらい皆が楽に出来るだろ?」

 結局は一部の人は働かなくちゃいけないんだけど、お祭りっぽい雰囲気で心は休まると思う。問題は、俺はおせち料理の作り方なんて知らないし、知っていたとしても食材があるかどうか……。

「聞いた話では、一体どういう料理なのか皆目見当つかないのですが……」
「そうだなぁ……日持ちする郷土料理を皆で作って、数日はその料理を食べる……ってところかな」
「なるほど」

 亜衣の曇っていた表情がぱっと明るくなり、今度は何を算段しているのか廻るましく表情が変化していく。最後に珍妙な面持ちが長く続いたかと思うと、 「では、手配してまいります」  と言って駆け出した。

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 俺は慌てて呼び止める。

「一応皆にも相談しないとさ」  戦いに関することは、亜衣も必ず軍議を開いてくれる。けど、それ以外のことでは、まだ神の遣いってのが浸透しちゃっているらしく、俺の意見=絶対みたいなところがあった。

「皆で検討しても変わらないと思いますが?」

 自分の中に出来た計画を早く実行したくてウズウズしてるのが、俺にも伝わってくる。

「いや、それでも復興軍全体のことだしさ……俺と亜衣だけで決めるわけにはいかないだろ?」
「……はぁ、承知いたしました」

 少し気のない返事だけど、それでいい。今は昼だから、狗根国側に大きな動きがない限り夕方には軍議が開かれるだろう。俺は亜衣に頷いて、割り当てられている部屋へと戻った。
 そして、今は志野に無理矢理起こされたわけだ……

「もう休憩は終わりですよ?」

 にっこりと微笑んではいるけど、俺が志野の料理を食べる前に休憩したことに不機嫌なのがありありと分かる。

「私が食べてあげるから、わざわざ嫌がってるヤツに食べさせなくたっていいのに……」

 いつもの通り、憎まれ口全開な珠洲。でも、今はその言葉がありがたい。かと言って、 『ほら、珠洲もそう言ってくれてるし……』  なんて言った日にゃ、床に箸が刺さりそうだし。

「べ、別に嫌がってるんじゃなくて、さすがに一気に全部は量が多いなぁって……ははは」
「八方美人」

 ぼそり、と珠洲の呟きが聞こえてきた。自分でもそう思う。

「ささ、どうぞ」

 その珠洲をひと睨みで凹ませた志野は、そう言って煮物の一つを箸を操って俺の口へと迫らせてきた。志野さん、俺の精一杯の抵抗、聞いてませんね?

「……ひ、一口だけだからな?」

 美味しい。皆美味しいんだけど、量が尋常じゃない。バクバク食べてる兵士たちが信じられない。俺は万年欠食児童じゃないっての。  ゲップや満腹の腹が訴える吐き気を堪えて、一口、首を伸ばしてパクリと食べる。旅している間に食べれる、瓶に保存しておく料理ということを、寝る前に聞いた気がする。

「……どうですか?」

 真剣な瞳で俺のことを見つめてくる志野。こうしているだけならいいんだけど……

「美味しいよ」
「よかった……では、もう一口」

 さっきまでの不機嫌さを堪えた笑みじゃなく、心からの微笑みで志野は酷なことをさらりと言ってくれた。

「いや、もう俺腹いっぱいでさ……明日には食べるから」

 まだ初日だ。高虎曰く、どうやら俺がなんとなくで言った通り、3日間は料理をしなくてもいい分量が出来ているらしい。

「私の愛情が篭った料理は食べられないって言うんですか?」

 絶対愛情じゃない。他の人と競ってるだけだろ? そう突っ込みたい。今の部屋の外では他の火魅子候補とか復興軍幹部の女性達が自分の作った料理や、俺が食べ残したものを抱えて、こっちの様子を窺っていることだろう。

「愛情、とかそういうんじゃなくってさ……」

 人間として、一度に食べられる量は決まってるだろ? と出来るだけ当然のことを言って志野を正気に戻させようとする。

「では、言い方を変えます。私の好意はこれ以上受け取れないんですか?」
「志野〜もう戻ろうよ」

 志野に相手にされなくて愚痴る珠洲。そうだ、もっと言ってくれ。いや、この際実力行使でも構わないぞ。どう言う訳か、腰を降ろしている俺の低い目線に対しても、上目遣いで見つめてくる志野に、もう一口ぐらい……という気持ちがむくむくと湧き上がってきた。

 ブンブン!

「……頭を振られて……どうしたんですか?」

 駄目だ駄目だ駄目だ。惑わされちゃいけない。爺ちゃんも言ってたじゃないか。女は魔物だ、と。あれ?  魔性だ、だっけか。日魅子は間違いなく魔性だから、魔性であってるな……うん。

「ってわけで、外で待ってる人たちも……悪いけど、今日はもう腹一杯なんだ。また明日な」

 亜衣がその場にいて、これが交渉の場でもあったら、  『懐の広いことをお示しください』  とでも言ってきたんだろうけど。別に俺は大食いだの底なし胃袋だのの称号は欲しくないし。神の遣いの胃袋度合いは人間並みってことで。

「わ……わ、わかりました」

 震える声と共に箸を収めた志野が下がっていく。珠洲に睨まれたけど、この際気にしない。お前だって早くここから出たがってたくせに。

「ま、また明日も来ていいですよね?」
「あ……」

 戸のところでこちらを振り返った志野の頬を流れ落ちる双筋の涙。

「食べる! 今食べるってば!」

 俺は腹が一杯なのが信じられないほど、素早く跳ね起きると、志野の手から器を奪い取って、箸で次から次へと―――  食べる!  食す!

「く、九峪様? そんなに無理なさらなくても……」
「い〜や! 今日は志野で最後だしなっ!」

 租借する!
 飲み込む!
 ぐっ詰まった!?

「ん〜っ!?」

 慌てて喉を叩く。
 やべ……今更腹が痛い……  意識が……遠のく……
 身体が傾いていくのを感じながら思った。
 今年の教訓―――



 ―――口は災いの元